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更新日付:2023年7月6日 広報広聴課

三村知事退任記者会見/令和5年6月28日

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知事記者会見録

会見日時:令和5年6月28日水曜日 15時00分~15時30分
会見場所:第三応接室
会見者:三村知事

〇司会
 ただ今から知事退任記者会見を行います。
 はじめに知事より退任の挨拶がございます。

〇知事
 改めまして、20年間、本当に県政記者会の皆さま方に感謝申し上げます。
 去る1月21日に「全てのことに時がある」と、そういう思いで今期をもって青森県知事を退任する旨を表明したわけでありますが、いよいよその日を迎えたというのが今の思いでございます。
 本日、こうしてお集まりくださいました県政記者会の皆さま方には、繰り返しになりますが、お互いに丁々発止(ちょうちょうはっし)の場面もあり、また自分だけがとうとうとお話ししたり、そういった場面もありましたが、共に我々、故郷青森をいかにして良くしていくかと、その思いで力を合わせてこられたものと、自分としては大変強く認識し、感謝に堪えないところでございます。
 この20年間を考えた場合、さまざまな困難等がありました。就任当初、財政状況等を含めて青森県を絶対に潰さないとの思いでありました。その一方で、有効求人倍率が0.28倍と、非常に厳しい中、また命を守る仕組みとしての厳しさ、医師不足等を含めて青森県としてたくさんの課題がある中、職員各位のさまざまなチームワーク、いいチームワークの下でそれぞれの課題に対して全力で立ち向かってくることができたと思っております。
 かつて、「知事の仕事は何か」と問われ、「忍耐、忍耐、努力、努力」と答えたわけでありますが、まさに20年間、馬車馬のように駆け抜けました。それぞれの課題に対して、どのような大きい壁であっても、まさに力を合わせて、我々県庁のチーム力で努力をすることにより絶対に乗り越えることができると、そういう思いで立ち向かってきました。そして可能な限り突破してきたと、そういう思いであります。
 「20年を総括すれば何か」とよく問われますが、とにかく稼いだ、とにかく走り回ったということであります。いわゆる土台と言うべきものを、さまざまにきちんとメンテナンスするというか、きちんとしなければいけない各分野に対して、丁寧にきちんと段取りをする。それは先ほどお話しした財政という非常に大きな課題もありましたが、産業という課題、要するに食える青森県にどうしたらできるかとか、命を守る青森県にどうしたらできるかといったこと、そしてまた何よりも、こちらで就職先を探しても働ける場所がないからこそ、どんどん若い方々を外に出さざるを得なかった。そのことに対する我々の大きな反転攻勢という意味において、いかにして故郷青森が大きく変化し、暮らしやすさ、あるいは仕事の多様さ、そして交通体系等が良くなることによって、従来の遠い青森ではなく、近く、そして行き来しやすく、チャレンジできる青森であることを伝えてきました。それが創業・起業という形で、(県内8市に設置されている創業支援拠点を利用した令和4年度の創業者数は、過去最多の)237名という数字で表れたわけです。そういったことを含めて、しっかりと知ってもらうというステージまで辿り着けたと思っております。
 そして、とにかく経済のために、得意分野を伸ばさなければいけないということで、特に、生産農業所得を2.29倍に伸ばすことができた農業の分野でありますとか、あるいは観光の分野も得意分野として(2019年の外国人延べ宿泊者数が震災前と比べて)570%の増、コロナで0ということになりましたが、この1年でメキメキとした体力、つなぎをつけておきましたので、そうしたことも段取りできたものと思っております。
 一言で感謝の思いを申し上げるのであれば、何よりも県民の皆さま方がさまざまな場面において、特にあの東日本大震災の時においてもあれだけ力を合わせてくれたことです。経済の打撃も含めてですが、自分としては本当にきつかった。そして、東北各県の状況を含めて全体を良くしていかなければいけないというきつい場面でしたが、あの時に我々、青森県民の絆の力の強さというんでしょうか、支える力の強さ、そのこと等を感じたということもございました。
 したがって、県民の皆さま方のお力をいただきながら、県議会、そして何よりもチームとして全力で働いてくれた県庁職員、この力をいただくことによって県政20年、今日に至ったと思っております。
 先ほども「子育ては親育て」という言葉があるという例え話をさせていただきましたが、子育てを通じて親として自らを律し成長していくことの例えですが、この20年間、青森県知事 三村申吾をしっかりと育み成長させてくれたのは、まさに直接的には常にそばにいる、OBを含む全ての県庁職員の方々であり、青森県民の皆さま方であり、常に𠮟咤激励していただいた、県議会の皆さま方です。
 そういった方々のお力をいただいて、青森県知事としての仕事をしっかりとこうして終えることができたことは、自分の誇りである、そう思っている次第です。
 さらに繰り返しになりますが、自分とすれば非常に苦難困難、さまざまなことがある中、全ての仕事にこのいいチームをいただいて全力で当たることができました。そのことによって、あっという間のこの20年。トータル的に言えば、よく働くことができる状態を作っていただき、全力で働き抜けたと、また、馬車馬のようにとにかく稼ぎまくって、稼ぎまくって、絶対に青森県を潰さないぞ、絶対に食える青森県にするぞ、絶対に命を守る仕組みを作っていくぞと、そうした一途の思いを貫くことができたと、そう考えております。
 繰り返しになりますが、県政記者会の皆さま方、また県民の皆さま方、県議会の皆さま方、そして職員を含む全ての皆さま方に感謝して、私からのご挨拶とさせていただきます。
 誠にありがとうございました。

〇記者
 20年間、大変お疲れ様でした。これまでもたくさんあったと思うんですけれども、この20年間で、強いて最も印象に残った出来事をあげるとすれば何でしょうか。

〇知事
 やはり東日本大震災になります。当時、県庁は電源が確保ができていたので、あちこちに設置されたカメラを通して、あの状況を直接目の当たりにしたことが非常につらいものでした。とにかく逃げろ、逃げろ、逃げろと。来るなと言っても波は来るし、船が突っ込んでくる、車も浮いている。そうした状況を目の当たりにしたことです。あのつらさというか、これが大自然の驚異であり、我々も防災に対してさまざまなことをやってきた中で、大自然の驚異に抗うことができなかった部分を見せつけられたということです。
 東日本大震災では、カメラがありましたので、昔と違いリアルに全部分かってしまう。それを見てしまったのは、大変につらいことでもあり、ここからどうやって回復していけるんだろうと非常に重い気持ちでした。
 また、知事就任当初の行財政改革では、1,100回説明して歩いて、あっちで怒られ、こっちで怒られ、もう本当につらかったという思いがありました。しかしながら、それはお金で返す、いわゆるさまざまな財政的努力を継続していくということになりますが、東日本大震災のあれほどの大打撃というものを目の当たりにして、本当にどうやってここから立て直していけるのかという思いがあり、これは非常に衝撃でした。ちょっとマイナスの話をするのはどうかと思いますが、一番衝撃でした。
 だから、行政のトップとして、このことにどのように徹底して対応していくか、どうチームを編成していくかについて、東日本大震災によりその重要性をますます確信し、危機管理局を新設いたしました。どういうチームでどうやって対応していくかや、シミュレーションをちゃんとやっていくかなど、検討を深めることができました。震災以降は皆さんもお分かりのとおり、さまざまなタイプの災害に対してのシミュレーションを行い、コロナ禍で実動できませんでしたが、実動部隊というものをかなり濃く、3自衛隊にもお願いをして、あるいは関係省庁もいろいろありますからお願いをしてやってきているというのを感じてくれていると思います。
 あの場面において、非常な厳しさとともに、自分のトップとしての大きな責任というか、成すべきことを本当に強く感じました。

〇記者
 細かい点の確認で申し訳ないですけれども、電源があってカメラもあったというのは、沿岸部の様子が県庁で確認できたということですか。

〇知事
 八戸とか、全部映像としてあるわけです。車が浮いていて、とにかく波が来て、逃げろ、逃げろということなどさまざまありました。あれは今の時代だから、当然そういう情報を全部見て段取りするということになりますが、そういうものを見ざるを得ない。仕事だから当然把握せざるを得ませんが、そういうことが非常に衝撃でした。

〇記者
 長年にわたってお疲れ様でした。
 今の質問に関連してなんですが、東北新幹線の全線開業直後に震災があって、そしてさらにはインバウンドが拡大局面にあった中で今度は新型コロナになってというふうに、形勢が拡大局面にいく中で度々こういうことがあって、そういった中でも、そういった壁を乗り越えるということに対しての知事のモチベーションはどういったものでしたでしょうか。

〇知事
 特に、震災で新幹線が止まっていた中で、岩手県と宮城県から切望されたのは、観光のお客さまにたくさん来てもらう算段をぜひ青森でしてほしいということでした。うちは空港も大丈夫でしたし、新幹線は止まっていましたが、復旧を目指して頑張っていましたし、シャワー効果を活用するため、まず青森に集まれば必ず東北に回っていくに違いないということでした。
 その後余震があって、せっかく修復したところにまた架線も倒れてしまいましたが、当時のJR東日本の清野社長が、「三村君、絶対に直す」と言ってくれました。絶対に直して、弘前の春の桜を皆で見ようと、JTBの田川さんとか観光の方々が集まって、我々でどうすべきかと。やはり一番は人が来てくれる、観光の力で東北を絶対に元気にしようと。それこそ桜が満開の弘前城で、本当に皆が集まって決起したわけです。どういうことやる、こういうことをやるとそれぞれにアイデアを出して、絶対にお客さんを招こうと。
 それで例の立体観光というアイデアを具体化し、とにかく乗ってくれば、それまではJALとJRの一体化というのはなかなかなかったわけですが、エアーで海外からも乗り継ぎで来てくれれば、そこからネットワークを使って東北新幹線、あるいは奥羽線などを使って回って歩けたらという思いでシステムを構築しました。
 だから危機にあっても、とにかくお客さんが来る方法があるはずだと。より多く効果的にやる方法があるはずだと。シャワー効果というのを活用するためには青森だと。
 では、どのように進めていくかということで、その当時から、台湾やアジアの国々といろいろ取り組みを進めていましたので、まずは彼らに来ていただいて、新幹線を自由に利用してもらうことを考えました。
 そういうことが元々アイデアとしてはありましたが、そういうことを具体化することに全力で取り組みました。
 その際、JRもそうですしJALもそうですし、交通機関も含めてですが、皆、一体の気持ちになって、うちの職員のチームもそうですが、駆け回って具体化しようということに取り組み、それが例の(2019年の外国人延べ宿泊客数が)570%増という数字に表れました。率直に言ってものすごいことでした。皆、青森に行こうよと、それで東北を応援しようということで。あれは大震災からの復活の中で、決して忘れることのできない思い出の一つでもあります。
 常に前向きというか諦めないというか、例えば観光の場合は、どこが隘路(あいろ)でどこが障壁で、それを乗り越えるためには誰と話をつけて、誰に理解してもらってと、どういう部隊を編制して取り組んでいくかなど、自分は編集者をやっていたので1冊の本を作るのと同じで、ただ単にやみくもに何とかしようということではなく、そのためにはどういうふうな段取りをしていくかということをまず考えました。
 そうして、とにかく絶対に、絶対に道はある。絶対に皆にとってプラスになる、皆にとって公益的で、しかも全体的に、絶対に良くなる方法はあるはずだと。一緒にやろうと。職員たちを集めて、どの手がある、この手があると、そっちの分野をどうするとか、こっちをどうするとか、台湾どうする、香港どうすると。絶対に日本を元気にしよう、東北を元気にしよう、一緒にやろうと、そういう思いで取り組んできました。
 常に張り巡らしてあるネットワークをきちんと思い出しながら、段取りをつけながら、どうすれば最もうまくいくかということをやってきました。

〇記者
 今日だったり、例えば昨日であったり、ご家族の方と何かお話をして、かけられた言葉はありますでしょうか。あるいはご自身からかけた言葉は。

〇知事
 家族には、引っ越しは自分でちゃんとやりなさいと言われています。やはり20年分の、積み上げた荷物をどんどん整理していると、十何年前のものがあったり、昔励まされた娘からの手紙だったり、息子からの手紙だったり、いろいろあります。百石の実家では荷物をどこに入れるかということもありますので、今日も、帰ってから1人元気に整理をしたいと思います。ただ、さすがにこの後は何人か手伝いに来てくれます。
 とにかく「よく働いたね」と、それは家内も言ってくれています。

〇記者
 三村知事、20年間、大変お疲れ様でした。先ほど東日本大震災の復興の際に、県民の絆を強く感じたとおっしゃられましたが、どういう場面でそれを感じましたか。

〇知事
 震災発生時、青山副知事を先に現地へ派遣し、次の日に一定の段取りを整えて、自分も被害の大きかった八戸市白銀に向かいました。高齢者の方も多く避難していましたが、地域の方々が来て積極的に支援してくれていました。それぞれ自分ができることをやってくれていて、外での交通整理や、中での食事の支度など、さまざまケアをしてくれていたことが非常に嬉しかったです。
 それともう1つ、地域の消防団や県警の方々、プラスして住民の方々が、みんなが確実に避難できるように、避難の必要性をしっかり理解させて、だから一緒に逃げようって、避難させてくれていました。絶対に逃がさなきゃ、逃げなきゃダメだというふうにみんなで力を合わせていたという報告を受け、また実際にその姿を拝見しました。もちろん、消防署などのプロの部隊の方々が行ってくれたということもあります。白銀の避難所での皆さんの姿を見て、青森県の人たちって本当にすごいなと。こういう危機があったときに、力を合わせていく県民性なんだなと感じました。もちろん、自分の出身地である百石(おいらせ町)も常に津波の危険性がある場所であり、そこでも支え合う姿を見ましたが、やはり最初に行った白銀の姿は、今でも忘れられません。
 高齢者の方々を、日赤奉仕団も含めてですが、全面的に応援をしてくれた。それはメディアの皆さまも現地に行ってさまざま感じてくれたと思います。青森県民の素晴らしさというのは、こうした危機的な時に絶対に現れるということを感じました。

〇記者
 そういった意味でも、20年の中で一番困難だったというのは、やはり震災ということになるのでしょうか。

〇知事
 困難という度合いで言えば、震災は目の当たりで非常に厳しさを感じていましたが、やはり自分としては就任当初の、県財政をいかにして潰さないようにするかという課題がありました。県の資金繰りもその中にあって、さまざま財源を回してでもとにかくしのがなければいけないという状況にありました。行財政改革の説明会を開催し、職員が手分けして行きましたが、その場では総論としては賛成だが、各論的には絶対許せないという声がありました。説明会後は、しょげてへとへとになって職員たちが帰ってきました。自分自身も、実際そういうこともやってきました。
 知事就任直後、どうしようかと思いましたが、大丈夫だと自分に言い聞かせて、絶対にいろんな知恵とか創意工夫とか出てくるし、絶対やり抜けると考えていました。
 県庁がいいチームだと感じたのはその時です。給与カットとかいろんなこともありましたが、「こういう部分はこうだから、こうやっていく」というように次々とアイデアが出てきました。とんでもない危機になった時には、腹を割って団結できるという、そういう県庁であり、これもまた県民性かなということを感じました。
 本当に当初の2年、3年は、ニコニコしていながらも、のたうち回る思いで、いつ資金ショートするのかという不安の中、絶対に青森県を潰さないということを常に考えながら仕事をしました。
 その一方、有効求人倍率0.28の経済状況であり、経済も回さなければいけない状況にありました。どういうふうに投資をして、投入できるかを考え、得意分野である農林水産業や観光産業で徹底的に稼がなければいけないと考えました。
 もともと経済が弱い上に歳出9,000億を7,000億に落としていくということは、回る経済がやっぱり小さくなりますので、その経済を集めるために稼ぎに出なければいけないわけです。どうするとなったときに、やっぱり攻めまくる。やろうよということで、農林水産部や商工労働部をはじめとした職員がやると言ってくれました。
 そのように、やればできるぞ青森県庁、力を合わせていこうよと。チームワークがぐんぐん出来てきて、編成できたチームが出来てきて、それぞれの部隊が「知事一緒に行きましょう、攻めに行きましょう、取りに行きましょう」と言ってくれて、どんどん、めきめきと県庁そのものが冬から春になるみたいに、盛り上がってきたことを実感できました。当時の職員たちもそれを感じたと思います。先ほどの職員への挨拶では、そういった過去の経験を忘れずに、今後もっといい青森にしてくれと、そういう気持ちを職員へのお別れの言葉とさせていただきました。

〇記者
 そういったプレッシャーを跳ねのけて、財政危機を回避できたと。全力で駆け抜けられたその根源にあるもの、知事の源はなにかをお聞かせください。

〇知事
 悲観主義というのは、結局何も生まないと思っています。自分だけでもスマイル。「どんな苦しい時でもよくニコニコ頑張ってくれました」と、退職した職員たちによく言われます。
 母親が言うには、幼い頃はあんなにしゃべらないでニコニコしていたのが、こんなにしゃべる子どもになると思わなかったと。家に帰ったら母親に「家では静かにしろ」と言われそうな気がします。

〇記者
 百石のご自宅に戻られてから、どういった生活をされるのかなと。

〇知事
 まず県民の皆さま方にぜひ申し上げたいことは、これまで知事として、野菜を食べようとか、運動をしようとかいいことをいっぱい言ってきましたが、改めて、自ら律して反省をして、ちゃんと健康的な生活をしたいと思います。食生活改善運動で野菜を食べようとかだし活とか言ってきた割には、(自分が食事をするときに)「醤油が足りない」とかやっていました。
 今度は、中路先生(弘前大学大学院特任教授)とも約束をしましたから、自ら言ってきたことを、健康的な生活をきちんとして、健診に行っても「すごいですね」と褒められるような体にしようと。
 要するに、ちゃんとした早寝早起き、運動をし、食生活をきちんとすることを自らちゃんと示すということが絶対必要だと思っています。これまで県民の皆さまに呼び掛けてきましたが、自分自身、生活が不規則だったこともあり、家に帰って「たいぎだ。カップ麺でいいや」ということが多かったものですから。
 あとは、大学が国文科であり、また新潮社に就職して純文学などの本を作っていたこともありましたので、読んでいない本をいろいろ読みたいなという思いがあります。ある程度元気なうちに、もう一度、自分自身の学ばなかったこと、それをもうちょっと学びたいというのが本音の一つとしてあります。
 本を読んで、健康づくりもちゃんとやって、そしてこれまで国内外いろいろな方と関係を築いてきたので、やはりもう一度、ありがとうという意味も込めて、また会いに、あるいはもう一度見てみたい景色や、もう一度吸ってみたい空気もあるので、そういったものをしっかりと味わいたいと思います。
 三村申吾個人としての生き足りなかった部分を、もう一度ちゃんと生きてみたいと考えています。そのために、中路先生との約束をちゃんと守って、健康づくりをして、今度会った時には先生より俺の方が健康だと威張りたいと思います。

〇司会
 それでは時間となりましたので、これをもちまして記者会見を終了いたします。

〇知事
 それでは、20年間、本当にありがとうございました。私ども青森県の未来のためには、県政記者会の皆さま方のご提言や𠮟咤激励が絶対に必要だと思っています。
 先般もお話しさせていただきましたが、私自身は思想・信条の自由や報道の自由、表現の自由について、その素晴らしさ、大切さということを肌で感じてきた一人でもあります。だからこそ、しっかりとした報道のためにも、皆さま方のまたそれぞれの表現の自由とか報道の自由を守っていくためにも、ぜひとも県政を良くするためのご提言をしていただければと切に願う次第でございます。
 知事としての職は離れますが、県政記者会の皆さま方のご健勝と、それぞれの仕事の場において納得し、これはしっかりとやった、ふるさと青森のために、この国、地方を良くしていくために、自分たちがこういうことをしっかりやったと。台湾など海外を回って歩く中において感じるのは、我が国は、もう一度みんなが力を合わせて、それぞれの持っているいろいろな素材や宝をそれぞれ出し合って踏ん張っていかなければならないと思います。その場面において、メディアの皆さまが持つ役割の大変な大きさ、重要性ということを自分は感じています。
 この20年間にいただいた皆さま方の力強いご提言や𠮟咤激励、こういったことを忘れることなく、良き報道の先にこそ良き地域づくりがありますので、そのためにもお力をお貸しいただければと思います。
 皆さま方とはこれまでいろいろやり取りをしましたけれども、言っていただいたことで反省をして考え直し、どうあるべきかということをもう一度振り返るということができました。心より感謝申し上げます。その皆さま方にだからこそ、その時々の経験を必ず未来に、次の時代に生かして、またしっかりいい仕事を、グッドジョブと言える仕事をしていただければと思います。
 長い弁舌をふるいましたけれども、誠にありがとうございました。
 お元気で、さようなら。

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