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更新日付:2018年3月30日

伝説・地名

伝説

源義経(みなもとのよしつね)は生きのびて青森へ?

源義経(みなもとのよしつね)は、平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)初期(しょき)の武将(ぶしょう)。
義経の名前がついている「義経寺(ぎけいじ)」 源氏(げんじ)の棟梁(とうりょう)、源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれて、おさないころは「牛若丸(うしわかまる)」とよばれていました。
牛若丸と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が、京都(きょうと)の五条大橋(ごじょうおおはし)で出会ったときの話は有名です。

歴史では、義経は、腹違い(はらちがい)のお兄さん、源頼朝(みなもとのよりとも)におわれて、奥州(おうしゅう)、現在の岩手県(いわてけん)で自害(じがい)したことになっているんだけれど、実は生きのびて北へのがれ、青森から北海道(ほっかいどう)へわたったという伝説(でんせつ)があります。
青森県津軽半島(つがるはんとう)北端(ほくたん)の外ヶ浜町(そとがはままち)は、義経が北海道にわたった土地とされていて、義経にまつわるものがたくさんあります。

  • 厩石(まやいし)
    荒れる津軽海峡(つがるかいきょう)に行く手をはばまれた義経が、観音像(かんのんぞう)をかざって、三日三晩(みっかみばん)祈りつづけたといわれる岩。
    義経が祈りつづけると、やがて海は静まり、岩の洞穴(どうけつ)に3頭の龍馬(りゅうま)がつながれていて、義経とその家来は龍馬に乗って海をわたったといわれています(「厩(まや)」は馬をあらわす言葉)。
    ここは2005年3月までは、三厩村(みんまやむら)という地名でしたが、この地名の由来(ゆらい)にもなったといわれています。
  • 義経寺(ぎけいじ)
    義経が祈りをささげたという観音像が安置(あんち)されている。
  • 甲岩(かぶといわ)
    無事にわたれるようにと義経が大切にしていた甲(かぶと)を海神にささげた場所にある岩で、こんもりと甲に似た形をしている。
ぎけいじ

キリストは青森で死んだ?

聖書(せいしょ)には、キリストは、イスラエルの首都(しゅと)、テルアビブ(エルサレム)で、十字架(じゅうじか)にかけられて死んだと書かれているけれど、新郷村(しんごうむら)には、「十字架にかけられたのは弟のイスキリで、キリストはひそかに日本に来て、この村で106歳(さい)まで生きた」というびっくりするような話があります。
キリストや弟イスキリのものと思われるお墓(はか)が発見されたほか、新郷村には不思議な風習(ふうしゅう)などがあります。
ダビデの星(2つの正三角形を重ねあわせたもので、イスラエルの国旗(こっき)にも使われているよ)を昔から家紋(かもん)とする家があります。

村にある「戸来(へらい)」という名字は「ヘブライ」ににている(古代イスラエル人は「ヘブライ人」ともよばる。イスラエルの言語は「ヘブライ語」)。
生後10カ月の赤ちゃんを初めて外に出すとき、ひたいに墨(すみ)で十字を書く風習があります。
「ナニャードヤレー ナニャドナサレデア ナニャドヤラヨー」という意味不明の唄(うた)が伝えられています(ヘブライ語としてやくすと、「聖前(せいぜん)に主(しゅ)をたたえよ、聖前に主は逆賊(ぎゃくぞく)を掃討(そうとう)したまえり 聖前に主をたたえよ」となる)。
キリストが本当に青森で死んだのかどうなのかはわからないけど、たしかに不思議なお話ですね。

(この伝説は、昭和初期に「竹内文書(たけのうちもんじょ)」と呼ばれる超古代文明について書かれたものに載っていることから広がりましたが、その信憑性については疑問が持たれています。)

お墓

地名

「青森」の地名はどこからついたの?

昔、現在の青森市の港のほうに、松が青々とおいしげる小高い森があって、漁船が港にくるときの目印(めじるし)になっていました。漁師たちは、その森を、しだいに「青森」とよぶようになりました。

津軽藩(つがるはん)二代目藩主(はんしゅ)、津軽信枚(つがるのぶひら)がその地に藩港(はんこう)の開発(かいはつ)をめいじたとき、漁師がよんでいた名前からとって「青森村」となったのが始まりです。

地名

「戸(へ)」のつく地名が多いのはなぜ?

青森県には「戸」のつく地名が多いですね。
青森県にある「戸」のつく地名は、三戸町(さんのへまち)・五戸町(ごのへまち)(以上、三戸郡(さんのへぐん))、六戸町(ろくのへまち)・七戸町(しちのへまち)(以上、上北郡(かみきたぐん))、八戸市(はちのへし)の5つ。ほか、岩手県(いわてけん)には一戸町(いちのへまち)(二戸郡(にのへぐん))、二戸市(にのへし)、九戸町(くのへまち)(九戸郡(くのへぐん))の3つがあります。
四戸(しのへ)だけがないのです。

平安時代(へいあんじだい)後期に、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて糠部郡(ぬかのぶぐん)がおかれたのですが、そのとき、郡の中が9つの地区にわけられ、一戸から九戸まで、地名がつけられたといわれています。
この「戸」は、「○○地区」や「○○地方」といった意味なのです。

お城があった三戸を中心に、東西南北の4つにわけ、さらに南を一戸、二戸、西を四戸、五戸、北を六戸、七戸、東を八戸、九戸としたという説もあります。
四戸という地名が消えたことについては、近くに集落(しゅうらく)がなくて使われなくなったのでは?などの話があるけれど、詳しいことはわかっていません。

のへ

「上北」と「下北」

「上北(かみきた)」と「下北(しもきた)」は、県の東部にあり、大きな面積をしめる地域ですが、明治11年(1878年)の郡区町村編制法により、それまでの「北郡」を二つにわけて、東京に近い南側を「上北」、遠い北側を「下北」としました。

県内では、比較的新しい地名です。

小川原湖(おがわらこ)

小川原湖は日本で11番目に大きな湖で、青森県最大の汽水湖(きすいこ:海水が侵入している湖沼)で、青森県上北郡東北町大字大浦字小川原湖191番地という住所が定められています。

はじめは小川原沼(こがわらぬま)と呼ばれていましたが、昭和33年(1958年)1月1日に、今の小川原湖(おがわらこ)に変わりました。
小川原湖に隣接(りんせつ)する青い森鉄道線の「小川原駅」の開業は昭和28年(1953年)で、「こがわら」と読むのはそのためです。

人物

太宰治(だざいおさむ)

1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村大字朝日山四百十四番地(あおもりけん きたつがるぐん かなぎむら おおあざ あさひやま よんひゃくじゅうよんばんち)(現在の五所川原市(ごしょがわらし))に、父源右衛門(ちち げんうえもん)・母タ子の六男(ろくなん)として生まれる。
戸籍名(こせきめい)は、津島修治(つしましゅうじ)。

現在の若者にも人気がある、青森県を代表する作家です。

代表作
・「斜陽」(しゃよう)
・「走れメロス」
・「津軽」(つがる)
・「お伽草紙」(おとぎそうし)
・「人間失格」(にんげんしっかく)

だざいおさむ
太宰治について、もっと知りたい人は
太宰ミュージアム

津軽為信(つがるためのぶ)

初代津軽藩主(しょだいつがるはんしゅ)。

南部(なんぶ)氏から現在の津軽地方の領地(りょうち)を切り取って独立(どくりつ)し、津軽藩(=弘前藩)の初代藩主となりました。

為信は領内(りょうない)の開発を進め、慶長(けいちょう)8年(1603年)に、後に弘前となる高岡の地に、町割りや、新城の建設を計画しました。

その遺志(いし)は2代藩主信枚(はんしゅ のぶひら)に受け継がれ、慶長16年(1611年)に完成し、城下町弘前が誕生しました。以後、津軽地方の政治・経済・文化の中心として繁栄(はんえい)します。

つがるためのぶ
津軽為信について、もっと知りたい人は
弘前市ホームページ

南部信直(なんぶのぶなお)

戦国大名(せんごくだいみょう)。

南部藩(なんぶはん。盛岡藩とも言います)の祖(そ。最初の当主)です。

1582年、南部藩の家督(かとく)を継ぎ、津軽氏や秋田氏との抗争(こうそう)のあと、1590年に豊臣秀吉(とよとみひでよし)により全国が統一されるといち早く秀吉のもとにかけつけて、領地(りょうち)が認められ、南部藩260年の基礎を作りました。

本拠地(ほんきょち)とした三戸城が手狭だったため、盛岡(もりおか)への移転を計画しましたが、完成する前に亡くなりました。


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