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更新日付:2016年7月8日 りんご果樹課
青森りんごの歴史:昭和40年まで
昭和の初め数年間は金融恐慌とともに、農業恐慌も大きな問題で世界的に農作物の価格暴落が起こっていました。
昭和9年に初めて設置されたりんご専用列車は、36時間かけて東京秋葉原にりんごを運びました。
しかし、りんごを取り巻く環境は変化し続けました。検査制度の導入や戦後のりんご移出税(のちにりんご税)の徴収、終戦後の小作園の解放、などを経験することになります。ちなみに、あと2、3年戦争が続けばりんご樹は殆ど枯死したであろうと言われています。
また、昭和前半は自然災害や病害虫による大不作や大豊作の交錯でした。大豊作時には日本経済が不安定であったこともあり価格暴落も引き起こしました。
昭和9年に初めて設置されたりんご専用列車は、36時間かけて東京秋葉原にりんごを運びました。
しかし、りんごを取り巻く環境は変化し続けました。検査制度の導入や戦後のりんご移出税(のちにりんご税)の徴収、終戦後の小作園の解放、などを経験することになります。ちなみに、あと2、3年戦争が続けばりんご樹は殆ど枯死したであろうと言われています。
また、昭和前半は自然災害や病害虫による大不作や大豊作の交錯でした。大豊作時には日本経済が不安定であったこともあり価格暴落も引き起こしました。
年次 | 歴史的事項 |
---|---|
昭和2年 (1927年) |
県議会において県営検査と販売改善施設を急速にこなすべき旨の意見書が満場一致で可決。 |
昭和3年 (1928年) |
県に設置の産業調査会で、県営検査の実施をなすべき旨を決議答申。 |
昭和4年 (1929年) |
8月1日から県営検査を実施したが、組織、方法等が既定予算の範囲内では困難であったことと、経済情勢やその他複雑な事情からわずか19日で廃止(第1次県営調査)。 |
〃 | 板柳町に県農事試験場害虫研究所が開設。 |
昭和6年 (1931年) |
4月1日、青森県農事試験場から園芸部を分離、青森県苹果試験場 (現青森県りんご試験場、庁舎は現りんご史料館)として発足。 |
〃 | 10月4日、太平洋横断飛行、“ミス・ビードル号”淋代を出発。5日、ウェナッチに到着、のちリチャードデリシャスをもたらす契機となる。 |
昭和8年 (1933年) |
4月1日から 県営検査を復活実施。 |
昭和10年 (1935年) |
青森県物産紹介所開所。 |
昭和12年 (1937年) |
県に特産課設置。 青森りんご振興委員会設置。南津軽郡藤崎町に農林省園芸試験場東北支場設置。 |
昭和13年 (1938年) |
東京、大阪、名古屋、下関に県物産紹介出張所設置。県内関係団体をもって青森県苹果輸出協会設立。三戸郡名久井村(現在名川町)に県農事試験場県南分場開設、北郡金木町にりんご経営農場設置。公認選果員制度を設置。 |
昭和14年 (1939年) |
上海に物産紹介出張所設置。 |
昭和15年 (1940年) |
移出1,000万箱突破、輸出100万箱。 |
昭和16年 (1941年) |
日華事変のため国は青果物配給統制規則を制定。 |
〃 | 物産紹介出張所を廃止し、青森、大阪、名古屋、下関のほか札幌に県事務所を設置。 |
〃 | 上海出張所を県りんご輸出調査所と改称。 |
昭和17年 (1942年) |
特産課廃止、県事務所、輸送調査所を廃止。 |
昭和20年 (1945年) |
モニリア病、尺取虫大発生 、生産量300万箱以下。8月、終戦により生産回復のため復興策講ずる。 |
〃 | 11月、国及び県青果物配給統制規則廃止。 |
昭和21年 (1946年) |
4月、再び国が青果物等統制令公布、県は7月青果物配給統制規則制定。 |
〃 | 青森県りんご協会が設立。 |
〃 | 県財政難のためりんご税を9月1日から1箱につき4円(付加税とも)賦課。 |
昭和22年 (1947年) |
4月1日からりんご税1箱20円(付加税とも)賦課。 |
〃 | 8月10日、天皇陛下県内御巡幸。八戸・青森・浪岡・黒石(苹果試験場)・弘前など御視察。 |
昭和23年 (1948年) |
県経済部に りんご課設置。東京、大阪、門司に青森県事務所設置。青森県林檎振興株式会社設立 。りんご税1箱40円(付加税とも)賦課。 青森県りんご検査所独立。 |
昭和24年 (1949年) |
りんご税をりんご引取税と改称し、1箱につき県税15円、市町村付加税15円の計30円を賦課。ひょう害、台風の被害甚大。 |
昭和25年 (1950年) |
りんご取引税全廃 。青森鉄道管理部廃止。 |
〃 | 青森県苹果試験場を青森県りんご試験場に改称。 |
昭和26年 (1951年) |
花芽不足による4分作、推定実収高891万箱。 |
昭和27年 (1952年) |
不作に対する営農資金1億1千万円農林中金より融資。生産量2,000万箱突破。 |
〃 | 青森県りんご輸出協会設立。 |
昭和28年 (1953年) |
6月1日、りんご振興審議会設置。青森県りんご検査所及び同検査支所が地方りんご事務所に改組。 |
昭和29年 (1954年) |
りんご赤星病蔓延、ビヤクシン類2,000本伐採。台風15号により449万箱落果。 |
昭和30年 (1955年) |
9月、県りんご協会主催でりんご栽培80周年記念行事としてりんご祭挙行。 |
〃 | 開花中の不順天候により モニリア病大発生し、生産量932万箱と昭和26年に次ぐ不作。 |
昭和31年 (1956年) |
世界作物防疫国際会議(イギリス)に県りんご試験場長木村甚弥出席。関係機関をもって 「県りんご安定生産運動」を組織。りんご栽培史上未曾有の2,900万箱の大豊作。 |
昭和32年 (1957年) |
前年に続き2,716万箱の生産高。しかし販売面で産地高、市況不振を招く。 |
〃 | 青森県りんご加工協会設立。 |
昭和33年 (1958年) |
りんご事務所を統廃合し、16りんご指導所と1駐在所設置。弘前大学農学部にりんご総合研究所設置。8月11~12日の豪雨で河川氾濫し、りんご園冠水702ヘクタール、被害2億4千万円。 |
昭和34年 (1959年) |
斑点性落葉病各地に発生。 推定実収高史上最高の2,971万箱。 |
昭和35年 (1960年) |
りんご栽培面積を航空写真により調査した結果25,500ヘクタールと判明。 |
〃 | 柏村にある日本最古のりんご樹(紅絞2本、祝1本)が青森県天然記念物に指定。 |
昭和36年 (1961年) |
果樹農業の振興を図るため国は「果樹農業振興特別措置法」を制定。県りんご試験場南部試験地が4月1日から南部支場に昇格。7月1日、香港に駐在員を派遣。 |
昭和37年 (1962年) |
第1回全国農業祭の園芸部門で、県りんご協会石川支部冷水組が天皇杯受賞。 |
昭和38年 (1963年) |
「青森県りんご産業振興の基本方針」について意見を求めるため、青森県りんご産業協議会を4月~9月まで開催。県の機構改革により、りんご指導所を地方農林事務所に吸収。 県りんご生産高は史上最高の3,437万箱。 |
〃 | バナナの輸入自由化により 、りんごの売行きに大きな影響を及ぼす。 |
〃 | 11月、県庁正面玄関左側芝生に国光、スターキング、陸奥、紅玉、恵を植栽。 |
昭和39年 (1964年) |
日本で最初の農協共同による 大規模C・A貯蔵庫完成(弘前市) 。生産者団体の整備の第1歩として青森県りんご生産出荷組合連合会が県経済連に統合。みかんの大豊作により国光の販売危機を誘発。 |
〃 | 5月、弘前市常盤坂において第1回りんご花祭りを開催。 |
昭和40年 (1965年) |
天候不順に対処し、人口授粉の徹底を期するため、中学生、高校生、自衛隊員の協力を要請。 |
〃 | 「青森りんご産業振興懇談会」を開催し、20年後の品種構成を主体とした長期計画書を作成。 |
〃 | 傾斜地りんご園の栽培技術体系の確立を図るため、南津軽郡平賀町唐竹字水上に「青森県りんご総合実験農場」を設置。 |
〃 | 台風23号(9月10~11日)24号(9月17~18日)により史上最高の約590万箱落果。 |