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更新日付:2014年9月26日 環境保全課

水の選定-名水百選(昭和59年度環境庁選定)-

富田の清水(とみたのしつこ)

<形態>湧水 <所在地>弘前市大字紙漉町
<概要>
 1686年津軽藩主は富田村の清水が紙漉に良いということで、熊野吉兵衛とその弟子を招き、紙漉を行わせしめた。これが紙漉町の始まりで、明治の頃まで紙漉に利用され、その後は市民の生活用水として使われている。吉野町にある「御膳水」は、明治14年天皇が行幸された折、料理・茶にこのシツコの水を使用した。これを記念し、昭和8年に「御膳水」の記念碑が建立されている。
 この二つが付近一帯にある湧水の代表的なものであり、公共的に使用されている。後者は稲荷神社付近にあり、氏子が管理等にあたっている。また、近年水がれ状態であったが、弘前大学の塩原先生が調査した結果をもとに修復し、水量は元にもどっている。
 前者の紙漉町のシツコは六つ水槽が並んでおり、それぞれに水が流入する一番目は飲用、二番目は洗面、三番目は漬物洗い、四番目は洗濯のすすぎというような使用のキマリがある。ここは主婦達の重宝な洗濯場であり、格好のコミュニケーションの場でもある。紙漉町清水共有会が管理している。共有者名簿があり、「本会はこの名泉の清流の恩沢を、付近住民及び一般公衆に開放し、その生活環境に普くうるおいあらしめんがため精進するものであって…」の規約を設けている。清掃はねぶたのナヌカ日に会員が行っている。ちなみに使用料は年会費千円とのことである。
 元禄時代に茶屋ができたり、トコロテン売の小屋掛があったり、明治には、わき口の住民と下流の農民との間で水争いが起こっている。明治34年には県地理唱歌に「幸に富田の真清水に心の塵をかきながし」とうたわれている。

渾神の清水(いがみのしつこ)

<形態>湧水 <所在地>平川市唐竹
<概要>
 「渾神の清水」は「今神の清水」ともいわれ、坂上田村磨にちなんだ故事がある。山間部の道路沿いに水が湧いており、農業用水等に利用されている。「霊泉」の碑を置き、祠と鳥居でまつってある。地元住民が登ってきては、周辺の清掃等環境整備に努め、その保全を図っている。
 天和2年(1682年)に編纂された「唐竹村々々位」には、「此處に清水今神の清水ざつこ沢 杉け沢 いと沢 薬師沢此水用る」とある。
 「渾神の清水」についての故事として、「竹館村誌」に坂上田村磨の眼病平癒の記録がある。それには「延歴年間田村麿将軍が東夷征伐の折、山頂に本陣を取り夷を退治した。後眼病に罹った。或る夜の夢に二人の美人が顕われて、是れよりも奥に21庁位行くと清水があります。其の水で目を洗うと忽ちなおるでしょう。我れは此土地の鎮守少彦明神であると申したと思うと夢が消えた。起きて傍を見たが人影もない。これはまさしく神様の告げ言であろうと思って頂から20丁程下っても、清水のわいている所がない。そこで大きな石が道にころがっていたので、これに膝を突いて神に礼拝すると不思議にも、冠っていた烏帽子が酉の方数十丁を指して飛んで落ちた。そこにはこんこんと水のわいている泉があった。是は神様のお授けになったものであろうと、こおどりして喜び、清水で目を洗うと忽ちのうちに平癒した。その徳に感じて眼病守護のため、阿蘇山に剣を埋めて薬師神と崇めて本殿を建てた。この清水わく泉を渾神の清水と呼んでいる。」と記されている。


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