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更新日付:2014年1月31日 三内丸山遺跡センター
連載企画『縄文遊々学』
第77回 遺跡地図を知っていますか(2)
青森県では現在約4700箇所の遺跡(埋蔵文化財包蔵地)が確認されています。ひとつひとつの遺跡について詳細に調べられているわけではありませんが、遺跡地図と遺跡地名表をもとに時代別の遺跡数を示したのが次の円グラフです。
- 時代毎の遺跡数
これを見ると7割近くが縄文時代の遺跡となっています。数字だけを見ると青森県は縄文王国と呼んでもよいのかもしれませんし、少なくとも最も身近にある文化財であると言えるでしょう。まだ私達の知らない、地下に埋もれたままの未知なる遺跡はたくさんあると思われますので、将来的にはさらに縄文時代の遺跡は増えるものと思います。
しかし、少し慎重に見ることも必要です。縄文時代の遺跡が多い理由として次のようなことも考えられます。遺跡の存在は分布調査など、現地で土器や石器などの遺物が確認されたことにより登録される場合がほとんどですが、その際に確認された土器が全て縄文時代のものとして誤認している可能性も否定できません。
つまり、土器が見つかると直ちにそれが縄文土器と思ってしまってはいないかということです。土器は縄文時代に限ったものではなく、弥生時代も古墳時代も、そして奈良時代、平安時代にも使われました。素焼きの土器という点では中世のかわらけもそうですし、最近は少なくなりましたが婚礼の際に使われる三三九度の盃も土器の場合があります。
土器に縄目の模様が付いていれば縄文土器の可能性は高いわけですが、縄文土器の中には縄目の模様がないものもありますし、弥生時代の土器にも縄目の模様が相当数見られますので、専門家でもない限り模様による時代の判別は容易ではありません。ですから土器が確認されたからといって必ずしも遺跡の時代が明確になるとは限らないわけです。
縄文時代の遺跡は古い場合には1万年以上、新しくても二千年以上経過しています。地下に埋もれていても、土木工事や開墾などによって、消滅や破壊の危機がありながらも現在まで保存されてきたわけです。本県の場合、縄文時代が終わり、弥生時代が始まってから今日まで、大都市圏に比べて大規模な土地の改変がなかったことが縄文遺跡の保存にとっては幸いしたものと言えます。縄文時代に限らず、人の居住に適した土地は限られています。後世、縄文時代の遺跡の上に居住することが少なかったことが遺跡にとっては好都合だったと言えるでしょう。
遺跡が現在まで数千年間も保存されてきたことは奇跡に近い、偶然の産物です。この祖先から受け継いだ貴重な遺産を次の世代に伝えていくことが現代に生きる私達の大きな使命と言えます。
しかし、少し慎重に見ることも必要です。縄文時代の遺跡が多い理由として次のようなことも考えられます。遺跡の存在は分布調査など、現地で土器や石器などの遺物が確認されたことにより登録される場合がほとんどですが、その際に確認された土器が全て縄文時代のものとして誤認している可能性も否定できません。
つまり、土器が見つかると直ちにそれが縄文土器と思ってしまってはいないかということです。土器は縄文時代に限ったものではなく、弥生時代も古墳時代も、そして奈良時代、平安時代にも使われました。素焼きの土器という点では中世のかわらけもそうですし、最近は少なくなりましたが婚礼の際に使われる三三九度の盃も土器の場合があります。
土器に縄目の模様が付いていれば縄文土器の可能性は高いわけですが、縄文土器の中には縄目の模様がないものもありますし、弥生時代の土器にも縄目の模様が相当数見られますので、専門家でもない限り模様による時代の判別は容易ではありません。ですから土器が確認されたからといって必ずしも遺跡の時代が明確になるとは限らないわけです。
縄文時代の遺跡は古い場合には1万年以上、新しくても二千年以上経過しています。地下に埋もれていても、土木工事や開墾などによって、消滅や破壊の危機がありながらも現在まで保存されてきたわけです。本県の場合、縄文時代が終わり、弥生時代が始まってから今日まで、大都市圏に比べて大規模な土地の改変がなかったことが縄文遺跡の保存にとっては幸いしたものと言えます。縄文時代に限らず、人の居住に適した土地は限られています。後世、縄文時代の遺跡の上に居住することが少なかったことが遺跡にとっては好都合だったと言えるでしょう。
遺跡が現在まで数千年間も保存されてきたことは奇跡に近い、偶然の産物です。この祖先から受け継いだ貴重な遺産を次の世代に伝えていくことが現代に生きる私達の大きな使命と言えます。