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更新日付:2013年10月1日 三内丸山遺跡センター

連載企画『縄文遊々学』

第74回 水と縄文人

 縄文人は水があるところの近くに住み、その周りに食料がなくなると移動を繰り返しました。と、小学校時代に習ったことを記憶している方もいると思います。水は生活にとって欠かすことができないものです。飲料水は生命を維持するためにきわめて重要です。県内はもちろん、各地の縄文遺跡を見ても規模の違いはあっても河川の近くや湧水の近くにムラが作られています。現在は痕跡がなくても発掘調査によって縄文時代の河川跡や湧水跡が見つかることがあります。

 水を得やすいことはムラを作る場所を決める大きな判断材料のひとつと思われますが、当時の日本列島では比較的水は得やすかったものと思われます。ひとつの湧水が長期間や繰り返し使われた痕跡があまりないようです。その大きな理由は豊かな森が広がっていたためと考えられます。豊かな森には水を蓄えた多くの樹木があります。世界自然遺産である白神山地のブナは幹に耳をあてると水を吸い上げる音が聞こえるとされています。森の保水力は想像以上に高いもののようです。広域に森林の伐採が行われると土地の乾燥化が急激に進むことが社会問題となっていることからもわかります。
 さらに、日本列島は中央に脊梁山脈があり、降った雨は谷や沢筋を経由して、比較的短時間で河川に流れ込みます。日本の河川に急流が多いのはこの地形のためです。河川に接続する支流も発達しています。
 最も大きな理由は、日本列島は四季が明瞭で、年間を通じて多くの降雨があった気候によります。この気候が実り豊かな森を育み、縄文人の生活を支えていました。
 水は堅果類のアク抜き処理にも使われました。三内丸山遺跡に隣接する近野遺跡では木組みの水槽が見つかっています。また、木の道具となる材料も加工しやすいように水漬けする際にも利用されました。

 日本列島では縄文時代草創期から水場遺構がすでに検出されています。おそらくは縄文時代より以前からすでにこのような施設があったと見るのが自然だと思います。
 中近東の乾燥地帯では湧水の場所が限られますので、同じ場所でムラや生活が営まれると、その場所は建物などに使われる日干し煉瓦などが繰り返し堆積し、周りよりも高い丘のような地形が出現します。テルとかテペと呼ばれ、日本語では遺丘(いきゅう)と訳されます。中には小山のような大規模なものも見られます。それらの地域で遺跡を見つけようとすれば、このような地形を目安にすれば良いということになります。

 連日猛暑が続いていますが、ひんやりと冷たい湧水は縄文人ののどを潤し、一時かもしれませんが暑さを忘れることができたかもしれません。
  • 近野遺跡で見つかった水場遺構
    近野遺跡で見つかった水場遺構 

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電話:017-782-9463  FAX:017-781-6103

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