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更新日付:2011年6月29日 三内丸山遺跡センター

連載企画『縄文遊々学』

第47回 しょっぱい川

 「上野発の夜行列車~降りたときからぁ~」で有名な連絡船が青函トンネル開通とともに昭和63年に廃止されてから20年以上が経過しました。年に数回、会議や研究会出席のため津軽海峡を渡ることがあります。一時、航空機を利用していましたが、やはり車窓から見える景色を楽しむ旅の風情は捨てがたく、いつのまにか列車移動が多くなってしまいました。
車窓から見える津軽海峡
 青森駅を出ると蟹田駅近くでは穏やかな陸奥湾や下北半島が間近に楽しめ、1時間ほどかかる青函トンネルはその長さと開通にこぎ着けた技術力の高さを感ぜずにはいられません。北海道側に渡ると右手に見える津軽海峡は四季折々の景色が美しく広がります。函館駅で乗り換え、札幌に向かう際にはいか飯で有名な森駅近くから見えてくる噴火湾沿いは素晴らしい眺望が続きます。
 今から約2万年前の氷河期には海水面が氷結し、130~140mほど海水面が下がり、北海道と本州は陸続きとなったものと考えられています。その時の陸橋のひとつの地下を現在青函トンネルが通っていることになります。縄文時代にはすでに現在のような海峡となっており、日本海を北上する対馬海流が分かれ、津軽海峡をとおり黒潮と合流していました。西から東への潮の流れは大変速く、遠泳やイカダで横断が試みられていますが、何度も失敗していることもよく知られています。

 しかし、縄文時代にも海峡を越えた物流や交流があったことが知られています。北海道産の黒曜石や石斧の石材が確実に本県に運ばれてきていますし、本州からはクリやウルシ、あるいは土偶、ストーン・サークルなどが伝わったものと考えられています。イノシシも北海道には生息していませんが、イノシシの幼獣の骨が道内で出土しています。また、本県の日本海側で作られたベンケイガイ製のブレスレットも海峡を越えて運ばれていたようです。
函館市戸井貝塚出土の舟形土製品
 海峡があっても頻繁に往来し、同じ土器を使い、おそらくは言葉も互いに理解できたものと考えられます。往来には舟が使われました。残念ながら丸木舟は見つかっていませんが、丸木舟の一部と考えられるものや加工途中のものが本県の遺跡では見つかっています。また、道南の函館市戸井貝塚からは舟を表したと考えられる土製品も出土しています。潮の流れは速いですが、おそらくは海が安定している初夏から秋にかけては航海技術に長けた縄文人にとっては比較的航海はしやすかったのではないでしょうか。

 津軽海峡を挟んだ北海道南部から北東北にかけては同じ文化圏が形成されていました。縄文研究の大家である小林達雄先生は『津軽海峡文化圏』と呼んでいます。海峡は文化の交流の障害とはならず、むしろ往来しやすい海の道であり、それこそ「しょっぱい川」に過ぎなかったと考えられます。

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