ホーム > 組織でさがす > 環境生活部 > 県民生活文化課 > ちょっと昔の青森県06「県立図書館の歴史を振り返る」(青森県史)

関連分野

更新日付:2009年7月22日 県民生活文化課

ちょっと昔の青森県06「県立図書館の歴史を振り返る」(青森県史)

戦後文化の発信地となった県立図書館の歴史を紹介します。   編集 近現代部会担当 中園 裕

旧県立図書館
 青森県立図書館を利用される方は多いと思います。写真は県庁の東棟から撮影した県立図書館です。といっても、現在の県立図書館ではありません。1954(昭和28)年6月8日に開館した旧県立図書館です。
 この図書館は県民にとっても待望の図書館でした。なぜなら戦前の県立図書館が戦災で焼失。運良く戦災を免れた書庫も、1946(昭和21)年11月24日の県庁火災で類焼し、書庫内の蔵書を一切焼失してしまったからです。
 戦時中、人びとは言論報道を制限されていました。それだけに敗戦後、人びとは活字を求めて、数少ない本や雑誌を読みふけったといいます。
 ところが、青森県の場合、肝心の県立図書館がバラック建ての粗末なものでした。とても県民のニーズには追いつかなかったのです。そのため図書館関係者は、遠方各地の県民のために移動図書館を実施。雪に閉ざされる冬場には、炉辺図書館(今日の読書会活動のようなもの)を県内6カ所で開設して、対応したといいます。
 こうした経緯もあって、図書館本館自体の新設を望む声が内外から高まり、知事や議会も積極的に運動を起こしました。ところが、戦後不況の波と青森大空襲で焼失した青森市街の復興のため、県の財政は逼迫していました。図書館の新設は、運動の高まりとは別に、思うように進展しなかったのです。
 1953(昭和28)6月8日、県立図書館は全館完成を待たず、1階が完成した段階で開館しています。それだけ県民は図書館の開館を待ち望んでいたのかもしれません。2階と3階が落成したのは、同年10月31日でした。しかし内外装工事などを含め、全館竣工を見るのは、翌年の9月13日になりました。

  写真 旧県立図書館(1960<昭和35>年9月・県史編さんグループ所蔵)

現県立図書館
 写真は現在の青森県立図書館です。青森市内の荒川字藤戸にある現在の図書館は、1990(平成2)年1月に建設構想が決定し、文学館を併設することになりました。旧図書館が老朽化し手狭になったため、より大型の総合的な図書館が必要となったわけです。着工は91(平成3)年の8月で、3年後の94(平成6)3月22日に落成式を挙行し、同日開館となっています。
 一方、旧図書館の跡地には、県庁の北棟が建設されました。1997(平成9)年10月から建設工事が開始され、2000年(平成12)年に完成し、同年6月20日に竣工式、7月1日から供用開始となっています。県史編さんグループも、北棟の3階に配置され、日々県史の編さんに追われています。

写真  現青森県立図書館(県立図書館提供)    青森県立図書館ホームページ

旧県立図書館
 

 戦後の県立図書館は苦難の道を歩んだわけですが、次に、そのいったんを写真を交えながら紹介しましょう。
 写真は旧青森県立図書館(写真)の建設に着手し始めたときのものです。1950(昭和25)年前後のころでしょう。場所は現在の県庁北棟があるところです。
 “青森県立中央図書館建設工事作業場”と書かれた塀の後ろに、工事用の足場が築かれています。その後ろに建つ3階建ての建物が、戦前までの県立図書館の書庫なのです。
 この書庫は、戦前まではかなり目立つ建物でした。それだけに図書館関係者は、空襲の恐ろしさを実感しながらも、この書庫が残ったことに感謝し、感動を覚えたといいます。

写真 戦前の図書館書庫(1950年前後・県立図書館提供)

移動図書館
 
 戦後の県立図書館を語る上で無視できないのが移動図書館でしょう。現在も市町村立の図書館などが実施していますから、似たような光景を見たことがあるかもしれません。
 しかし戦時中、満足に活字を見ることができなかった人びとにとって、戦後間もない頃は本や雑誌に対する情熱と欲求が、現在の我々とは違っています。写真を見てもわかるように、移動図書館の周りには老若男女、さまざまな人びとが群がっています。こうした光景も、戦後間もない頃の風物詩といえるでしょう。
 場所がどこなのかはわかりませんが、昭和20年代後半の様子です。人びとの身なりなどから、時代の流れが感じられます。

写真  移動図書館「はと号」による本の貸出風景(1953~54年・県立図書館提供)

図書館ホール
 戦後の県立図書館を語る際、もうひとつ記しておかねばならないことがあります。それは、図書館内にあった講堂(ホール)についてです(写真参照)。この講堂、当時の人びとにとっては、図書館自体よりも思い出深いものがあったといわれています。
 なぜ、講堂が? と思われるでしょう。これも移動図書館と同様、戦後まもない人びとが、文化的施設を希求していたという背景があったのです。特に青森市の場合、空襲で集会機能を備えた施設が決定的に不足していました。そのため図書館の講堂が大いに重宝がられたのです。事実、講堂は各種団体の儀式や集会に活用されました。音楽会、映画鑑賞、演劇、ファッションショーなどにも活用されたというから驚きますね。
 しかし、日本が高度経済成長に突入してからは、講堂を持つ図書館の役割にも変化が生じてきました。青森市内に集会機能をもった施設が建てられる一方で、図書館に対する利用者が、学生層を中心に増え始めたのです。閲覧室は次第に手狭になり、県民から閲覧室の拡張を望む声が高まるようになったのです。
 こうして1971(昭和46)年の3月、青森県民の思い出を詰め込んだ講堂は幕を閉じ、翌年3月には大閲覧室へと改築され、その使命を終えました。『東奥日報』は、講堂を「焼け野原に現われた文化の殿堂」と書いています。いかに講堂が県民に愛されたかがわかるでしょう。
 戦後の民主化路線にのって建てられた青森県立図書館は、図書館機能、美術館的展示機能、県民文化発展の集会機能の3つを兼ね備えた民主的図書館でした。青森県の戦後文化は、青森県立図書館を抜きには語れないのです。

写真  図書館講堂(1955年頃・県立図書館提供)

  現在、青森県立図書館80周年を同図書館の青森県立文学館で開催中!

    こちらをご覧ください  →  青森県立図書館80年のあゆみ

関連ページ

この記事についてのお問い合わせ

環境生活部 県民生活文化課 県史編さんグループ
電話:017-734-9238・9239  FAX:017-734-8063

この記事をシェアする

  • facebookでシェアする
  • twitterでシェアする
  • LINEでシェアする

フォローする

  • facebookでフォローする
  • twitterでフォローする