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更新日付:2012年2月8日 世界文化遺産登録推進室

連載企画『縄文遊々学』

第56回 縄文と弥生
 縄文文化と弥生文化との違いを聞かれることがあります。もちろん、学校で習ってきたように、縄文文化に後続するのが弥生文化であることは御承知のことと思います。そもそも時代や年代が違うわけです。ところが、具体的な内容になると本県では普段弥生に関する情報が少ないせいか、あまり知られていないようです。それに、実際に発掘調査で見えてきた本県の弥生文化は教科書どおりではないとことも判ってきました。

 縄文文化は今から約13,000~約2,300年前の約1万年間継続しましたが、弥生文化は約2,300~約1,700年前の約600年間と考えられていますので、存続した時間幅が大きく違います。しかし、国立歴史民俗博物館などの研究によると弥生文化の開始は従来の年代観より約500年ほど古くなるといった見解もあります。この点についてはもう少し研究の進展を待ちたいと思います。

 弥生文化といえば稲作と金属器の使用ですが、本県はどうだったでしょうか。昭和30年代から炭化米や籾痕の付いた土器は見つかっていたものの、冷涼な気候である本県では稲作が適さないと考えられており、弥生時代になっても縄文的な狩猟・採集が継続したとして、同じく稲作不適の北海道と同じように「続縄文文化・続縄文時代」とする意見が大半でした。私も学生時代には最初本県には弥生文化はないと思っていましたが、土器をよく観察すると縄文土器とは違う特徴の土器があることから、やっぱり弥生文化かもしれないと考えていました。

 そして、昭和56年南津軽郡田舎館村の垂柳遺跡から見事な弥生時代中期の水田跡が見つかり、本県に稲作農耕による弥生文化が到達していたことが証明されました。火山灰に覆われていたため、状態よく保存されていたわけです。まさしく定説を覆す大発見でした。その後の調査で計656枚にも及ぶ大規模な水田跡が検出され、本格的な稲作農耕であることは明らかとなりました。

 昭和62年には弘前市三和にある砂沢遺跡からさらに古い弥生時代前期の水田跡が見つかりました。この発見も新聞の一面を飾る大ニュースでした。現在でもなお本州最北の水田跡です。当時は北部九州に稲作が伝来してからあまり時間が経過することなく東北北部に稲作が伝わったと考えられましたが、弥生時代の開始年代が遡る可能性が高くなった現在では、時間をかけて徐々に本州北端に達したものとする研究者が多いようです。

 この稲作農耕文化は津軽海峡を越えることはなかったとされていますが、私は北海道からも弥生的な土器が出土していますので、将来的に道南や石狩低地あたりでは水田跡が見つかるかもしれないと心の中で密かに期待しています。
  • 垂柳遺跡水田跡
    歴史観を変えた垂柳遺跡(田舎館村)の水田跡

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電話:017-734-9183  FAX:017-734-8128

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